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【掌編】齊藤想『一打席』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第30回)に応募した作品です。
テーマは「花火」でした。

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『一打席』 齊藤想

 小沢弾道は、なぜ自分がプロ入りできたかも分からなかった。
 甲子園には三年間を通じて縁が無く、実績といったらプロ入り確実と噂された強豪校のエース左腕から地区予選でホームランを打ったぐらいだ。
 もちろんまぐれ当たりで、あとの三打席は完璧に抑えられた。チームも負けた。
 高校三年生のとき、冗談のようにプロ志望届けを出したら育成選手として拾われた。いわば三軍のような扱いだ。
 プロ入りした小沢は、コーチから奇妙な指示を与えられた。
「他の練習はしなくてよい。左腕のスライダーを打つ練習をひたすらしなさい」
 強豪高のエースから放った弾道を、ひたすら思い出すかのような練習だった。
 しかし、同じ練習を三年続けていると、さすがに焦りがでる。育成選手の契約期間は三年間だ。再契約も可能とはいえ、ひとつの目安であることは間違いない。
 それがシーズン終盤になり支配下選手登録、簡単に言うと二軍に昇格し、日本シリーズ直前に一軍と帯同することになった。
 プロ入りしたときと同じく、小沢にはなぜ一軍になったのか分からなかった。
 監督のサプライズ人選に注目されるかと思ったら、記者会見で監督は「まあ、一芸に秀でているから、使う機会もあるでしょう」とそっけないものだった。
 無口な監督は、ときおり意表をつく選手起用をする。引退直前のピッチャーを開幕投手に起用したり、一人一回、九人の継投で完封勝ちしたこともある。また監督の気まぐれかと記者たちも思ったとだろう。
 それにしても、なぜ小沢なのか、自分でも分からなかった。

 日本シリーズは一進一退の攻防が続いた。
 チームが勝利を挙げると、相手チームが取り返す。オセロのような展開に一喜一憂しながらついに第七戦にまでたどり着いた。
 この試合に勝てば優勝だ。もちろん小沢に出番は無い。
 大一番に先発として起用されたのは、両チームともローテーション通り三番手投手だった。シーズン最後の試合なので、両エースも準備を怠らない。
 試合はいままでの疲労が蓄積されたかのような乱打戦となり、六回終わって七対七の同点だった。
 寡黙な監督がコーチに何事かつぶやいた。うなずいたコーチが小沢に声をかける。
「いまから振っておけ」
 代打の準備だ。一軍経験が皆無な小沢に声がかかる理由が分からない。
 小沢は日本シリーズになって急に呼ばれた監督の意図を、主力選手へのあてつけだろうと思っていた。油断していると試合に出れなくなるぞという警告だと感じていた。
 だから、本当に出番がくるとは思っていなかった。
 最終回になった。チームは一点を追いかける展開だった。最終回のマウンドに立つのは相手チームのエース。三年前に地区予選でホームランを放った、強豪高の左腕だ。
 彼は野球エリートらしく、入団二年目から活躍していた。
 四球でランナーがひとり出たところで、小沢が呼ばれた。監督が直々に声をかける。
「三球目のスライダーを振りぬけ」
 初めて生で聞く監督の声だった。感動で体が震える。
 そこから先は、夢見心地だった。直球が続けてボールとなり、ストライクを取りにきた三球目を振りぬくと、まるで高校時代のように、綺麗にレフトスタンドに飛び込むサヨナラホームランとなった。
 歓喜の渦。チームメイトからの手荒い祝福。
 そして、小沢のプロ生活はこの一打席で終わった。
 小沢が育成選手で登録されたのも、ずっと同じ練習を続けたのも、日本シリーズ直前で一軍に登録されたのも、すべてはこの一打席のためだった。
「同じ作戦は二度と通用せん」
 監督はそう言ったそうだが、小沢には悔いは無かった。
 ほどなくして引退した小沢は、自分のプロ野球生活を振り返った。
 自分はまるで花火だ。リトルリーグに入団した小学一年生から、一振りのために、十五年間も努力を重ねてきたようなものだ。
 小沢は思う。もし、小学一年生のとき、未来を告げられていたら、野球を続けていただろうか。と聞かれたらどう答えるだろうか。
 答えはもちろん「YES」だ。一瞬の輝きは、何によりも美しいものだから。

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【SS】齊藤想『耐久テスト』 [自作ショートショート]

2016年大阪ショートショートで最終選考まで残った作品です。
テーマは「復活」でした。

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『耐久テスト』 齊藤想

 新型二足歩行型アンドロイドの試作機が完成した。
 基本的なテストは実験室で行われてクリアーしたが、まだ実地試験が残っている。この新型機を市販するためには実際に運用し、人類に危害を与えないことを実証しなくてはならない。
 この試験のために、新型機はまだ文明の発達していない殖民惑星に派遣された。知的に劣っている原住民たちの攻撃にさらされても、相手に危害を加えることなく、自らを守り続ければ合格となる。
 
 最初の実験場として選ばれたのは、高温多湿の地域だった。精密機械にとって、高温と湿度は最大の敵だ。この環境に耐えられてこそ、耐久テストの意味がある。
 新型機は川べりで眼を覚ますと、この地域を治める王の元に向かった。身なりや顔つきを整えることで人知れず王子と入れ替わると、安楽な生活をむさぼるようになった。原住民との知力の差が大きいため、このくらの芸当はお茶の子さいさいのようだった。
 城に居座られてはテストにならない。研究室はアンドロイドに指令を与えて強制的に放浪の旅に出すことにした。大雨の中を行く当てもなく歩かせ、ときには大河の飛び込ませた。それでも故障することはなかった。
 彼は厳しい環境に耐え、旅の途中で原住民たちの心を掴むことに成功し、多くの人に慕われるようになった。原住民の精神向上にも貢献した。テストとしては上々の成績だ。
 実証データは充分に揃ったので、彼は木の下で眠らせることにした。原住民たちは死んだものと思って、墓を立てた。
 時代が下ると、彼を祭る神殿のいくつかに「遺骨」と称する物体が埋められるようになった。ロボットである彼が骨を持つことはないので彼らが崇め奉る遺物が偽物であることは論を待たないが、原住民とは不思議な生物である。

 二号機は砂漠へと向かわせた。
 高温多湿の環境をクリアーすることができたので、今度は乾燥した地域でテストを行うことにした。
 二号機も一般家庭に紛れ込み、一号機ほどではないがほどほどの生活を始めたので、これも旅に出させることにした。
 彼は砂漠と荒野を歩き続けた。乾燥と紫外線に充分に耐えた。彼は一号機を同じように旅の途中で原住民の心を掴むことに成功し、多くのひとに慕われるようになった。
 一号機との違いは、支配者層に睨まれたことだった。
 彼は捕らわれ、市内を引きずり回され、槍と釘を何本も突き立てられた。最新鋭のロボットなので、この程度のことで破壊されることはない。しかし、さすがに死んだことにしないとまずいので、一旦は機能を停止させた。原住民たちは死んだものと思って墓を立てた。
 夜中にこっそりと回収しようと再起動させたところ、原住民に見つかって大事件になりかけた。正体がばれることも覚悟したが、なぜか「復活した」と有難がられ、彼をたたえる聖典に奇跡として記載されることとなった。もちろん二号機が事前に「私は復活する」と宣言したことはないが、伝説に伝説が重ねられる過程で復活を予言し、その通りに復活したこととなった。原住民たちの想像力には恐れ入るしかない。
 いずれにしても原住民たちの知力の低さに助けられた部分はあったものの、実験の成果としては上々だった。
 こうして実地試験をクリアーした新型アンドロイドは発売されることになった。いまでは各家庭に普及しているごくありふれた商品だ。

 なお、試作機はあまりにも原住民たちに愛されたがゆえに、一号機は”仏陀”、二号機は”キリスト”と呼ばれ、いまだに彼らの歴史にその名を留めている。

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【掌編】齊藤想『傘職人』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第29回)に応募した作品です。
テーマは「かさ」でした。

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『傘職人』 齊藤想

 「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。武士たるもの貧しくとも堂々とせねばならぬという気高き魂を唄ったものだ。しかし、父上は食うためにひたすら傘貼りの内職をしている。
 六畳長屋に並ぶ傘たちをみると、清太郎は「これは内職ではなく本職だ」と思わざるを得ない。そもそも父は旗本の身分も売り払ってしまい、形式上は武士だが、実質的には町民と同じ生活をしている。
 身分売買の仕組みは簡単だ。金銭を受け取る代わりに成金どもの息子を養子として迎え入れ、本人は隠居届を出してひっこむ。これで売買完了だ。
 いまや父は憐憫の情をもって高利貸しからあてがわれた長屋の一部屋で、ほそぼそと傘貼りの内職にいそしんでいる。
「おい清五郎」
 先祖代々の屋敷を失った父が言った。「ちょっと傘を外にだしといてくれ」
 清五郎は情けなく思った。祖先は名もない足軽だったが、大阪の陣で先陣を切って槍をふるい、夏の陣では城内になだれ込み名のある将を打ち取った。
 その功績で旗本に抜擢され、長年家禄を守り続けていたのに、父といったら生来のずぼらさが災いしてまともな役目につけず、いつしか蓄えを食いつぶし、ついには武士の身分も失ってしまった。
「この傘はきれいだとはおもわんか」
 父は狭い長屋で一本の傘を開いた。四畳一間の長屋暮らしで、室内で傘を開くのは危険極まりない。頭を払われそうになった母が露骨に顔をしかめた。
「骨ごとに違う和紙を張り合わせた。江戸っ子は派手好きだ。こういうのを店先に出せば売れるとおもわんか」
 清五郎は軽蔑のこもった目で、父を見返した。浦賀には黒船が来襲し、寺小屋仲間だった為助の父は二本刺しを抱えて海岸まで走ったというのに。
「商人の下請けだけではだめだ。わしは自分の力で一旗揚げて、儲けたいのだ」
「父上」
 あまりの浅ましさに、清五郎の声は鋭くなった。もはや父ではないと思った。
 清五郎は刀をもって立ち上がった。拵えは立派だが、中身は竹光だ。本物はとうの昔に質流れしている。
「どこへ行くのだ」
 浦賀に決まっている。
「外に出たついでに傘を開いて並べてくれ。売り物だから丁寧に扱うのだぞ」
 清五郎は返事の代わりに新品の傘を蹴飛ばして、黒船へと向かった。

 浦賀では散々だった。
 幕府の役人にまるで浮浪者のように追い立てられた。黒煙を吐く巨大な船に恐れおののいた幕府は、アメリカの小役人相手に土下座をするようにして開国が決定された。
 日本はめまぐるしく動いた。清五郎は長屋に戻ることはなく、尊王攘夷を叫び、志士として刀を振るい続けた。
 父のことは一度だけ外国人居留地で見かけた。例の派手な傘を売り歩いていた。青目鬼どもは喜んでいたようだった。
 清五郎は、まるで女形のように柳腰で頭を下げる父を見て、情けなくて涙が出た。
 時代は容赦なく流れていく。薩摩と長州が蜂起し、鳥羽伏見の戦いで惨敗した幕府は戦うことなく江戸城は明け渡し、北へと続く戊辰戦争もほどなく終結した。
 清五郎は志士仲間が起こした会社に就職し、商社のまねごとのような仕事を始めた。食べるためには理念を横に置いておくしかなかった。

 江戸は過ぎ去り、矢田挿雲の江戸を懐かしむエッセーが好評を博すようになった。
 何十年ぶりに実家にもどると、父はまだ生きていた。ざんばり頭になった息子の顔を見て「変わったものよのう」とただひとことつぶやいただけだった。
 清五郎は確信した。父は知っていた。まもなく幕府が崩壊し、商人の世が来ることを。
 「父上」背中に声をかけても、父の手の動きは止まらない。
「教えてください。侍の時代が終わると、いつ気が付いたのですか」
 父はしばし何かを考えるような姿をした。
「昔しすぎて忘れてもうた。ただ、ひとに喜ばれる仕事をしたくてのう」
 それだけいうと、職人の顔に戻った。もう武士の面影は一厘も残っていない。
 清五郎は過ぎ去った時代を懐かしみながらも、父の選択は正しかったのかもしれないとぼやけた頭で思い始めていた。

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【掌編】齊藤想『第二ボタン』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第26回)に応募した作品です。
テーマは「ボタン」でした。

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 『第二ボタン』 齊藤想

 これは一種の病だったのかもしれない。けど、このボタンだけは真実だと信じたい。
 中学時代、あこがれの先輩から制服の第二ボタンをもらうことが流行していた。大人気の先輩になると、ポケットに予備のボタンを大量に入れておき、じゃらじゃら言わせながらご褒美の飴玉みたいに後輩へ渡していた。
 けど、私の先輩は違う。その瞬間はいまでも脳裏に焼き付いている。
 ある日の夕方。仲良しの美穂が先輩を呼んできてくれた。がらんどうになった放課後の校舎の四階。ひとけのない廊下の行き当たり。私の目の前、わずか十五センチ前に立つ先輩。気を利かした美穂がそっと遠ざかる。夕日が妙に赤い。
 傾いた太陽に押されるようにして、私がさらに一歩前に出る。両手を胸の前で交差させる。いつも遠くで見ていました。先輩がスリーポイントシュートを決めるときの、軽く膝を曲げてからカエルのようにしゅっと、いや違った、バッタのようにピョンと、これも違う。上手くいえないけど、とても素敵でした。
 あれだけ前日に第二ボタンをもらう練習してきたのに、先輩の前に立つと頭が真っ白になってしまう。それだけ大好きだった先輩。
 慌てふためく私の姿を見た先輩は、軽く笑いながら「これだよね」と、大きな手で第二ボタンを包み込んだ。指先がくるりと回転して、しばらくして私の手のひらに乗せられる暖かなボタン。私はボタンを握り締めて、先輩の体温を手の内に閉じ込める。
「なんかスースーするなあ」
 先輩はボタンがひとつ取れた制服を、いたずらっぽく見せた。
 その先輩とは、それっきりだった。それでも先輩かから受け取った第二ボタンは、いまも宝物として、机の奥にしまってある。

 高校卒業後、その先輩から一通の手紙が届いた。大学を中退して手品師としてデビューしたのだという。招待状も同封されていた。
 私は喜んで先輩のステージに駆け付けた。会場に入ると、中学時代の同級生がたくさん並んでいる。どうやら先輩は中高時代の名簿で招待状を発送したようで、まるで同窓会のようだった。もちろんあの先輩と引き合わせてくれた美穂の姿もあった
 先輩の初舞台は、テレビにもで出演したことのある有名手品師の前座だった。もともと器用だった先輩は、その大きな手を活かして様々なものを隠したり出したりしていた。何も無いところから巨大トランプが出てきたと思えば、次の瞬間には消えている。
 先輩の手品は本物だった。
 短い持ち時間の中で、バスケットボール部で活躍していたときのように、精一杯の演技を続けている。荒削りながらも才能を感じる手さばきに、同じ中高の仲間たちだけでなく、有名手品師を目当てに来場していた紳士淑女たちも惜しみない拍手を送っていた。
 先輩は輝いていた。自分の道を見つけた大人の笑顔だった。私は自宅から持ってきた第二ボタンを、強く握り締める。やっぱり先輩は素敵だった。
 一通りの演技を終えた先輩は、最後に客席に向ってこう語りかけた。
「私が始めて手品をしたのは中学三年生のときです」
 少し嫌な予感がする。
「そのころ第二ボタンを渡すのが流行っていまして、私は後輩にせがまれたときに断るのも悪いと思い、ボタンを取る振りをして別のボタンを彼女に渡しました。制服のボタンを外してボタンが取れた振りをしたところ見事に後輩はひっかかり……」
 あとは聞けなかった。私は単なる実験台だった。純粋な気持ちを踏みにじられた。家から持ってきたボタンを「これがそのときのボタンよ!」と叫びながらこの場で投げ付けたかった。けど、先輩の初舞台をダメにしたくない。その思いだけで踏みとどまり、耳をふさいで屈辱を耐え忍んだ。けど、涙は止まらなかった。
 休憩時間になって、私はハンカチで顔を覆いながらロビーに出た。すると、同級生だった美穂が追いかけてきた。
 興奮した様子の美穂に、私は胸が詰まった。
「ねえねえ感動的だったと思わない! だって、初ステージで告白なんて、びっくりしちゃって」
 その相手は私ではない。くらくらする私を、美穂が強く手を引く。
「手品への道に導いてくれた後輩に感謝の念をこめて告白しますなんて、粋な先輩じゃない。あのときは自分に自信が持てなくて第二ボタンを渡す勇気がなかったけど、いまなら渡せるって。さあ、楽屋まで急いで」


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【SS】齊藤想『金星の雲』 [自作ショートショート]

第4回星新一賞に応募した作品です。
理系小説をイメージしてみました。

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『金星の雲』 齊藤想

 金星の雲が晴れようとしていた。
 研究が始まって何万年たつのかすら分からないほど長い実験が、いまやフィナーレを迎えようとしている。
 惑星気象学研究所の所長は、金星に向けていた望遠鏡から目を離すと、太陽系第二惑星の開発がここまで進んだことに満足の表情を浮かべた。
 金星へのテラフォーミングに向けての実験が始まったのは、もう記録を紐解くのも難しいほど古い時代のことだった。
 金星は地球と極めて類似している。岩石組成もほぼ同一で、大きさもシルエットを並べるとどちらが地球かわからないほどだ。公転軌道もすでにテラフォーミングされている火星と比べれば遥かに地球と近い。重力だって1割程度しか変わらない。
 それでは、なぜ、金星へのテラフォーミングが進まなかったのか。火星より遥かに出遅れてしまったのか。
 それは気温にある。
 金星大気は地球の九〇倍もの圧力がある上に、組成の九割以上が二酸化酸素という、まるで透明な毛布で何重もくるまれたまま灼熱の砂漠に置き去りにされたかのような惑星だ。その二酸化炭素による強力な温暖化作用によって金星の地表面は四六〇度を超え、さらに上空では高温をエネルギー源にしたスーパーローテーションと呼ばれる時速一八〇キロから三六〇キロにも達する強烈な風が吹き続けている。地球の台風など、金星のスーパーローテーションと比べればおままごとのようなものだ。
 逆に言えば、温度の問題さえ解決すれば、金星は火星より遥かに住みやすくなる。
 豊富な大気に、ありあまる炭素。火星のようにわざわざ地球から資材を運ばなくても金星内で自活できる。気温さえ安定すれば、風も静まり、小春日和が続くことだろう。
 唯一の難点は水だが、これも大気中に僅かに含まれており、金星の大気からかき集めれば人間が生活する分は確保できる見込みがある。
 意外に思われるかもしれないが、温暖化作用がなければ金星は地球より寒い。
 温暖化作用が無いものと仮定して計算される理論上の気温のことを有効放射温度と言うが、地球の有効放射温度が約零下二〇度に対し、金星は約零下五〇度まで下がる。
 地球より三〇度も低くなる原因は分厚い大気だ。金星の雲は太陽光線をことごとく反射してしまう。理論的には地球の一.九倍もの太陽エネルギーを受けているにも関わらず、大地まで届く熱はほんのわずかだ。
 つまり、金星大気中の二酸化炭素量を減少させ、気温十五度前後で均衡するように温暖化作用をコントロールすることができれば、金星を地球とほぼ同じ環境にすることが可能になるのだ。
 人間が生活する基盤さえできれば、先ほど唯一の問題と論じた水分はなんとかなる。分厚い大気から水をかき集めても良いし、足りなければ地殻内に含まれている成分から水素と酸素を分離して合成させても良い。彗星から獲得する方法もある。また、金星には硫酸の雨が降っており、硫酸の化学式はH2SO4、つまり硫酸から硫黄と酸素原子2個を引き剥がせば水が得られる。
 住み着いてしまえば、アイデアはいくらでも湧き出てくるものだ。
 なにはともあれ、問題は二酸化炭素である。
 どうやってコントロールすべきか、昔の地球人はいろいろ考えた。
 最初は二酸化炭素とカルシウムを反応させて、石灰岩として固定することを試みた。
 地球誕生当時の大気は、金星とほぼ同じ組成であると推定されている。それがなぜ地球では二酸化炭素量がわずか0.04%まで減少し、金星は96.5%のままなのか。
 兄弟のような惑星の運命を分けたのは、”海”だった。
 地球上の二酸化酸素は海に溶け込み、カルシウム成分と反応して石灰岩となって固定された。穏やかな気候は植物の繁栄を促し、膨大な植物自体が炭素の貯蔵庫であるのと同時に、寿命の尽きた植物も石炭や石油として地下深くに封印されることで、炭素の固定化が促進された。
 金星には海もなければ植物もない。
 惑星が誕生した当初は海があったと思われるが、金星は地球よりわずかに太陽に近かったため温暖化が早く進んだ。その結果、海が二酸化炭素を取り込むより前に蒸発してしまい、二酸化酸素を固定するチャンスを失ったのだ。
 水蒸気となった水分は大気上層部で紫外線の作用により酸素と水素に分離した。水素は軽いため宇宙へと逃げ出し、酸素は地表の酸化に使われた。蒸発した水が雨として再び大地に戻るには、金星は暑すぎたのだ。
 こうして、金星は生まれたままの大気をいまも保ち続けている。
 金星移住には幾重もの困難が待ち構えている。だからといって、弱音を吐いてばかりもいられない。人類が地球だけで生活するのはいずれ限界が来る。まずは火星、次に金星へ進出するのは歴史的必然ともいえる。
 火星移住計画は金星より早く進んだ。火星は水が豊富な惑星で、少し掘れば氷がでてくる。だが重力が弱く大気を保持できないため、巨大なドーム建設が必要になる。もちろん原材料は火星にある鉱脈から掘り出すのだが、精製するのにも莫大な燃料と設備が必要で、結局のところ地球を頼りにせざる得ない。また、地球と比べて水の循環や造山活動が弱かったため鉱脈が細い。実験的に移住するならともかく、大々的にテラフォーミングできる環境ではないことが判明している。
 こうして、人類の眼は金星に注がれた。
 二酸化炭素の処理については種々の議論があり、最終的に二案が残った。A案は二酸化炭素を酸素と炭素に分離する特殊な触媒を開発することだった。太陽による紫外線をエネルギー源として、二酸化炭素から炭素を取り除き、炭素を地表に蓄積させようというのだ。
 理論的には可能だが、問題は実現性である。計算の結果、A案は天文学的数字の触媒をばら撒く必要があることが判明し、結局のところ「現在より格段に効率の良い触媒が開発されるのを待つ」という名目で棚上げをせざるを得なかった。
 もうひとつは植物案である。
 わずかな水分でも繁殖可能な植物を開発し、それらを金星の大気に漂わせることで、炭素の固定化を促進しようというのだ。
 そして、採用されたのは植物案だった。
 研究対象としてシアノバクテリアに注目が集まった。シアノバクテリアは地球の運命を変えた細菌と呼ばれており、地球上で始めて光合成を始めた由緒ある生命体だ。
 シアノバクテリアの反応は水を大量に使う。産み出す酸素も水を分解して得られるものだ。そのため、このままでは金星で繁殖することができない。金星は水が乏しく、節水型の反応が求められる。
 そこで、シアノバクテリアに強化したカルビン・ベンソン回路を導入することが試みられた。強化したカルビン・ベンソン回路は無限ともいえるほど、ひたすら炭素を繋げる。二酸化炭素を炭素として固定するためだけに生まれた細菌だ。
 研究はうまくいった。新しいシアノバクテリアは水をほとんど消費することなく光合成を行うが、その変わりにエネルギー多消費型の生物となってしまった。主として赤色を吸収する従来型の植物ではエネルギー不足であるため、黒色を帯びさせてあらゆる太陽光を効率よく吸収させることにした。
 こうして新しい細菌が誕生した。彼らは太陽光を貪欲に取り込み、微かな水分を触媒として再利用しながら、光合成によってひたすら炭素鎖を連ねていく。
 一般的に、植物は光合成をフル回転で行うことはない。自らを守るために休息を挟みながら反応する。しかし、新しいバクテリアからその制限を取っ払った。その代償として極端に寿命が短くなったが、死ぬ以上に繁殖力が旺盛なので問題はなさそうだった。
 この人工的に誕生した新種の細菌は、ブラックバクテリアと名付けられた。黒い植物の誕生だ。
 少し育ててみたところ、世代交代が早いだけに次々と突然変異を起こし、いまやありとあらゆる環境に適応しそうな勢いだった。毎日のように進化を続け、いまや二酸化炭素さえあれば、水星や冥王星でも生きられそうだった。
 どうやら人工的に遺伝子を改変することを繰り返したため、遺伝子の結合が弱い……いわば突然変異を起こしやすい性質になったようだ。
 この特質は、偶然とはいえ、新たなる環境に送り込むのに最適な要素だった。
 実際に実験室において、金星で考えられるあらゆる環境で繁殖させたところ、次々と耐性を獲得し、中には濃硫酸にも耐えられる個体も誕生した。
 もはや金星では敵なしだった。それどころか、太陽系のどこでも生きていけるかもしれない。想定外の環境に遭遇したとしても、彼らなら乗り越えていけるだろう。
 このバクテリアが研究所から漏れたら大変なことになる。研究者ですら立ち入り禁止の地下深くに密閉された厳重に管理された施設で増殖させることになった。全ての作業は遠隔作業で行われ、ロケットに積み込む際も収納容器の外側を特殊カーボン繊維が溶けるほどの炎で炙り、厳重に消毒させた。
 こうして誕生したブラックバクテリアを、繰り返し金星にばら撒いた。
 金星が生まれ変わるのに時間がかかると見込まれたので、研究所は閉鎖させられた。不慮の事故による拡散が恐れられたブラックバクテリアは徹底的に焼却させられた。そうして、いつしか研究は忘れ去れらた。
 ブラックバクテリアは金星で大繁殖をした。一時期は金星が黒く染まるほど増殖し、そのころには研究は遠い昔の話だったので、真実が発掘されるまで黒い雲の原因は何だと天文学者を悩ませ続けた。
 金星の改造は順調に進んだ。
 二酸化炭素が減少し、気温が下がり始めた。大地はブラックバクテリアが生産する多種多様な高分子有機物に覆われた。
 ブラックバクテリアが二酸化炭素を食べ続けているといっても、まだまだ金星の気温と気圧は高い。低地に溜まった有機物は金星特有の高気温と高圧力によって組成変化が起こるとともに液化し、原油の元となるケロジェンの海が誕生した。
 いまの技術があれば、ケロジェンを原油にするのは容易だ。
 はるか昔に原油を掘りつくしていた地球からは大喝采があがったが、輸送の困難さと将来の金星開発のために保存すべきだとの意見が大勢となり、そのまま様子を見ることとなった。
 金星の変化は止まらない。
 酸素が増えてオゾン層が形成され、その巨大なオゾン層が有害な宇宙由来の放射能をシャットアウトした。組成が変化した大気がほどよく太陽光を反射し、かつ温暖化作用が抑えられたことで、金星に穏やかな気候が訪れた。スーパーローテーションも消滅した。
 二酸化酸素が炭素として固定化されたことで大気の厚みが減少し、希薄だった水分が地表部に濃縮されたことで雲まで浮かぶようになった。振り続けていた濃硫酸の雨も、進化したブラックバクテリアによって、水と酸素と硫黄に分解された。
 ブラックバクテリアの繁殖は止まり、新たなる環境に適合した生命体が続々と産まれた。世代交代が早いおかげで、進化のスピードも桁違いだった。
 いまや金星は生命が満ち溢れる惑星へと変化した。
 ここまで金星が変わるのに、何世代かかったのだろうか。

 時は満ちた。いまや金星は人類を待ち構える桃源郷となったのだ。

 惑星気象学研究所の所長はいままでの経緯を振り返ると、緊急警報を鳴らし続けているテレビ画面を見つめながらひとりごちた。
 ここまで研究が上手くいくとは、当時の人類はだれも思っていなかっただろう。ここまで完璧に金星が生命のゆりかごになるとは想像すらしなかったに違ない。人類の英知は、期待以上の成果を上げたのだ。後世に誇れる大事業といえる。
 ただ、たったひとつの誤算といえば、ブラックバクテリアが急激な勢いで進化して知的生命体となり、いまや大挙して地球を攻めてこようと進軍中であることだけなのだが。

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【SS】齊藤想『魔女の消しゴム』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第25回)に応募した作品です。
テーマは「消しゴム」でした。

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『魔女の消しゴム』 齊藤想

 オー・ヘンリーの傑作短編に、『魔女のパン』というパン屋を営む中年女性が主人公の作品がある。彼女は貧しい画家に恋をしていた。その画家はいつも、古いパンを2個だけ購入して、彼女の店を出る。
 彼女は同情心から彼のパンにそっとバターを挟む。そうしたら次の日、画家は血相を変えて彼女の店にやってきた。
 彼はパンを食べるためではなく、設計図の鉛筆の線を消すために購入していたのだ。彼女が挟んだバターのせいで、完成直前だった彼の作品はダメになってしまったのだ。

 というような話だ。
 実は、いまの私は彼女と似たような境遇にある。貧しい画家に恋する乙女。オー・ヘンリーの短編との違いといえば、彼女はパン屋。私は文房具屋。彼女は経営者で、私はただのアルバイト。けど、そんなのは大した違いではない。愛する人がいる。その人が毎日のように来店する。そのことが大事なの。
 私の愛しい人は、今日も粗末な身なりでお店にやってくる。
「いらっしゃいませ」
 私は精一杯の笑顔を彼に向ける。
 彼は店長がいないときだけやってくる。彼は少し恥ずかしそうにうつむくと、狭い店内をぐるりと一周し、消しゴムのコーナーで足を止める。彼はそこで小脇に抱えたスケッチブックを開いては、消しゴムの試し消しをする。
 ときには勝手にパッケージを明けて、お試し用に使ってしまう。お店からすれば褒められた行動ではない。けど、私はそれを見て見ぬ振りをする。
 お試し用の消しゴムは彼のためにある。何でも消せる強力な一品。彼はポケットから鉛筆を出しては、何かを描く。そして、消す。
 彼は消しゴムが買えないほど貧しいのかもしれない。そのような彼のために、店長には内緒で、特殊用途の高級消しゴムを試供品コーナーに置いたりする。最後の一粒まで黒鉛を取る素晴らしい商品だ。この商品を置いたとき、彼は嬉しそうにほほえんだのを、私は見逃さなかった。
 彼はどのような絵を描くのだろうか。あの優しそうな瞳、優雅な指先。きっと、美しい女性をデッサンしているに違いない。裸の女性が、彼の前で艶めかしい肢体をさらす。
 そのような想像をして、ときおり胸が痛くなる。
 ふっと目があった。
 彼が私のことを見ている。大きく開かれたスケッチブック。細身のジャケットから伸びる腕が小刻みに動く。そして、ときおりレジに向かう彼の視線。
「描かれているのは私だ」
 そう気がついて、私は嬉しくなった。何の変哲も無いこの私。髪の毛はボサボサ、メガネはやぼったく、スタイルだってずんどう。こんな私を、彼は、モデルとして認めてくれている。
 彼は消しゴムのためではなく、私のためにこのお店に通ってきてくれている。
 彼はスケッチブックを閉じると、さわやかな笑顔とともに店を出た。言葉は交わしていないけど、お互いの気持ちが通じたようで、私は幸せだった。

 彼との余韻に浸る幸せな時間は、外から聞こえてくる店長の罵声によって遮られた。軽い乱闘騒ぎのあとで、がさつな店長が、店を出たばかりの彼の華奢な腕を捻り上げながら入ってきた。
 どうやら近くで店の様子を見張っていたらしい。
「お客様に何をするのですか」
 私の精一杯の抗議に、店長がだるまのような目を向ける。
「お前の目は節穴か」
 店長が彼のジャケットをひっくり返すと、そこから高級文房具が山のように出てきた。
「彼は窃盗の常習犯だ。店内でスケッチブックを広げて毎日のように堂々と万引きしているのに、顔を赤らめて見て見ぬふりをするとは何事か!」


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齊藤想『不都合な落し物』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第23回)に応募した作品です。
テーマは「落し物」でした。

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『不都合な落し物』  齊藤想


 春一番が吹き荒れるある日の午後。
 ぼくの目の前にカツラが落ちている。そして、少し前方に、信号待ちをしている見事な禿頭。彼の頭頂部は春の日差しに照らされて、まるで書初め展で入選し、初めて経験する表彰式で喜びを隠せない小学生のように輝いている。
 彼はベテランのサラリーマンだろうか。その彼のでこぼこした頭の上を、朝から吹き荒れる春一番が通り抜ける。
 ぼくは会社の先輩と一緒に信号待ちをしていた。誠心誠意・親切一途で有名な先輩なのに、この路上に落ちているカツラに限っては、見て見ぬふりをしている。
 先輩の口癖は「人間、多少おせっかいなぐらいがちょうどいい」だ。
 親切にしてもらって悪い感情を抱く人間はいない。本音では迷惑だと思っても、親切にしてもらった気持ちそのものは嬉しいものだ。
 親切をどんどん押し売れ。それが、人脈に繋がり、仕事にも跳ね返ってくる。
 お酒を飲むたびにそう力説していたはずなのに、先輩は、声を掛けてくれといわんばかりに落ちているカツラから目を背け続けている。
 なぜ先輩はこのカツラを無視するのだろうか。親切を押し売る絶好のチャンスなのに。
 新社会人であるぼくは、先輩の気持ちを想像した。
 もしかしたら、「このカツラは男性の持ち物ではないかもしれない」と心配しているのかもしれない。もし彼の持ち物ではなかったら、声かけは大変な失礼にあたる。ビジネスマンとして、礼を逸するのは絶対に避けなければならない事態だ。
 ぼくは、目の前に落ちている商品が彼のものかどうか検証を始めた。親切を押し売るにも慎重さが大事。これも先輩の教えだ。
 ぼくは指先で禿げ頭とカツラの比較した。大きさは同じ。しかも男性はいわゆゆU字型のハゲで、側頭部まで後退した生え際とカツラの形状が完全に一致する。
 さらに検証を加える。信号待ちしている男性たちではげ頭は彼しかいない。この状況証拠は決定的だ。
 信号待ちをしている集団からカツラの持ち主を探すと、該当者は彼しかありえない。
 では信号待ちの集団が来る前から落ちていた可能性はないのか。
 それもありえない。カツラは汚れていない。落ちたてピカピカだ。仮に以前から落ちていたとしたら、おりからの強風ですぐに吹き飛んでしまうだろう。
 真実を明かすことが全てに優先するわけではない。ぼくは、先輩が気にしているかもしれないもうひとつの可能性にも思い当たった。
 カツラは黒いダイヤとも、被る宝石とも称されるほど高価な商品だ。しかし、いくら春一番が吹き荒れたからといって、飛ばされるカツラは安物としか思えない。量販店で間に合わせの商品を被っただけかもしれない。
 確かに衆目の前で安物を返されたら恥ずかしい。場合によっては逆恨みされるかもしれない。
 ときに親切は相手を傷つけることがある。それは配慮が足りない場合だ。
 ぼくはすっとハンカチを取り出した。これでカツラを包み込み、周りから見えないようにして返せばだれも傷つかない。
 ここまで気を回せるようになったのも、先輩の教えのおかげだ。ぼくは先輩に対する感謝と敬愛の念をさらに強くした。
 車道の信号が黄色から赤に変わった。もうすぐ禿頭は行ってしまう。時間が無い。
 ぼくは決断すると、すっとしゃがんでハンカチでカツラを丁寧に包み込んだ。思いのほか軽かった。そうして男性の肩を軽くたたき、どこかで見た顔だなと思いながら、そっと差し出した。
 禿頭は激しく動揺したのか、自分の頭を触り、そして何故か怒りを込めた目でぼくを睨みつけ、ぼくの手から奪うようにしてカツラを取った。
 信号が変わり、禿頭はそそくさと歩き出した。ぼくと先輩が歩く方向と同じだった。
「また親切をしました」
 ぼくが誇らしげに先輩に報告すると、先輩はあきれたように口を開いた。
「お前は真面目すぎるのが欠点だな。黙って見逃すことが親切ということもあるのに」
 そして、ぼくは目撃した。
 わずか一〇メートル先で、いままで信号待ちしていたさえない熟年サラリーマンが、男らしくて凛々しいわが社の社長に変身していくのを。 


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【掌編】齊藤想『桜の季節に』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第23回)に応募した作品です。
テーマは「サクラ」でした。

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『桜の季節に』 齊藤想

 ぼくが登校拒否に陥ったのは、桜が散り終えた季節だった。
 なぜ学校に行けなくなったのか、自分でも分からない。小四年の冬から病気がちになり、インフルエンザや溶連菌や急性胃腸炎が順繰りにぼくの体に侵入し、欠席が増えるとともに教室へ戻りにくくなった。
 仲の良かった友達はたまに遊びに来るし、顔を合わせれば普段通りに話す。
 それなのに、足が学校に向かない。
 まるで、校門の前に見えないバリアが張られたようなものだ。そのバリアはぼくが欠席するたびに厚くなり、強固になる。

 朝は嵐のようだ。
 両親はぼくに学校に行けと高圧的に促し、ときには青あざができるまで腕を引っ張られる。玄関で泣き叫び、ほほをはたかれたのも一度や二度ではない。父親にげんこつを喰らったこともある。
 学校に行けば楽なのに。教室に入れば全て解決するのに。
 そう頭では思っていても、心が動かない。
 ぼくの気持ちを両親に知ってもらうために、家庭内暴力をふるうようになった。朝食を投げつけ、皿をガラス窓に叩きつけた。カッターナイフでソファーを切り裂いた。ぼくが暴れる度に自宅が荒れていく。母親はオロオロし、父親は本気で殴りかかってきた。
 気が付くと、ぼくは吹っ飛ばされていた。
 壁に頭蓋骨を石膏で型取りしたような穴が開いた。一瞬だけくらくらとしたが、回復すると再び父親に襲い掛かった。父親はぼくを学生時代に鳴らしたという柔道の技で投げ飛ばすとそのまま馬乗りになり、ぼくの顔を殴り続ける。
 鉄球を振り下ろされたような痛みが、鉄の味ともとに広がる。
 それでも、ぼくは自分の力を制御することができなかった。自分でも、なぜこのようなことをしているのかわからないまま、悍馬のように暴れ続ける。
 毎朝の戦争に、母親は疲れ切った。父親はぼくに聞こえるように「コイツはダメだ」と吐き捨てた。両親は完全に白旗を揚げた。
 そうして、小五年の春から、ぼくは完全に不登校に陥った。
 
 季節が過ぎて、六年生の春が来た。ある意味で、穏やかな日々が続いていた。
 カウンセリングの帰り道、ぼくは車中でウトウトとしていた。車を運転するのは父親の役目だ。母親と違い父親のハンドル捌きはなめらかで、窓を通して差し込んでくる柔らかな陽光に春眠を誘われていた。だから、車が止まっているのに気がつかなかった。
 ぼくが目覚めたとき、父親は車外に出て、運転席側のドアにもたれながら桜を眺めていた。校門の前に並んでいる桜だ。
 ソメイヨシノは一斉に咲いて、一斉に散る。盛りを迎えた花たちは、風が通り抜けるたびに花びらを地上に向けて放っていく。
 そういえば、ぼくが不登校に陥ったのは、桜が散り終えたころだった。もう一年がたったのだ。
 ぼくは、この一年間を回想するように、舞い続ける花びらを追い続けた。強固に張られたはずの校門のバリア。何重にも張られた難攻不落の障壁。見ているだけで圧倒される鉄壁な要塞を、桜の花びらたちは、まるで別世界の出来事かのように通り過ぎていく。
 物理上の法則では当然なのだが、花びらが次々と校門を越えていく様子が、ぼくには不思議でたまらなかった。
 父親は泣いていた。
 ぼくを罵倒した口から嗚咽を漏らし、ぼくを殴った手で涙をぬぐっている。桜の花びらは、校門のバリアを次々と突破していく。教室の声はここまで届かない。
 午前中の終業を告げるチャイムが響いた。
「おい、急にどうした」
 父親は驚いた。ぼくは車から出て、校門の前に立っていた。
 ぼくは見えないバリアに向けて手を伸ばした。抵抗は受けなかった。何も感じなかった。ぼくの戸惑いをあざ笑うかのように、桜の花びらたちが校門を越えていく。
「たまには学校に行こうかな」
 ぼくがそうつぶやくと、父親は答えた。
「まあ、無理するな」
 もう父親はぼくを強制することはない。そして、黙って助手席のドアを開けた。帰ろうの合図だ。だが、父親は見たはずだ。ぼくのつま先が、僅かに校門を越えていたことを。
「焦ることはない。お前のやりたいようにすればよいのだから」
 車はゆっくりと校門から離れていく。ぼくは、一歩だけ前に踏み出せる気がした。

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【掌編】齊藤想『お局が去る日』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第22回)に応募した作品です。
テーマは「新人」でした。

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齊藤想『お局が去る日』


 「新人」の反対語はどの言葉になるだろうか。「ベテラン」、「経験者」、「達人」など様々な言葉が思い浮かぶ。しかし、この場所では間違いなく「お局」だ。「お局」こそ、女性陣をまとめるリーダーなのだ。
 私がこの職場にきて二十四年にもなる。特段居心地が良いわけではなく、むしろ悪い方なのだが、ここは長く勤めるほど「偉い」と見なされる傾向がある。その奇妙な風習に守られて、安楽な日々を送っている。
 私レベルのお局になるとライバルはいない。もはや神の領域だ。同僚たちは、神のご機嫌を取ろうと様々な差し入れをしたり、ときには誰かをおとしめるために噂話を吹き込んできたりして、短い自由時間をアブのように忙しく私の周囲を立ち回る。
 取り巻きのメンバーは固定されているわけではない。時間の流れとともにポツポツと抜けていく。私は「お局」として、彼女たちの旅立ちを表面上はお祝いしつつ、心の底ではほくそ笑む。ライバル候補が減るたびに、私の立場は強固なものとなる。
 消えたメンバーの替わりというわけでもないが、不定期に新人がやってくる。新人が来るとみんな興味津々だ。いままで何をしてきたのか。ここに何年いそうなのか。人物は危険なのか安全なのか。様々な値踏みをして、まるで動物園の猿山のように職場内のランクが決まっていく。
 毎年のように繰り返される日々。春が来て夏が来て、秋が来て冬が来るのと同じぐらい平凡な年月。いつまでも変わらない風景。
 そうした安楽な生活に異変が起きたのは、ある大型新人の登場だ。
 その新人は、目つきから違っていた。ギラついていた。飢えた猫だった。
 私の取り巻きたちが、さっそく値踏みを始める。過去をほじくりかえし、人物を鑑定する。彼女のガードは堅く、なかなか半生を語らなかったが、まだ若いのに相当な経験を積んでいることは間違いない。この職場に二十年はいるものと判断された。
 空気は一変した。
 私は好むと好まざると、あと一年もすればここを去らなければならない。ごねれば延長することも可能だが、「お局」としてのプライドが許さない。最近は仕事ぶりが模範的であると認められて、さらなる特権を得ていたので、いまさら新人のような生活に戻ることもできなかった。
 しばらく様子を見ていた私の取り巻きたちは、ひとりふたりと、彼女の側近のような顔をして貼りつくようになった。先が見える「お局」より、次期「お局」が確約されているメス猫……これは私が彼女に付けたあだ名なのだが……の味方をする方が得と判断しているのだ。
 私は達観していた。
 全ては順番なのだ。年老いた者が順番に死んでいくように、「お局」も新人がくるたびに追い出されていく。その順番が私の元にもやってきただけだ。むしろ、この職場に世話になりすぎたのかもしれない。
 私がこの職場を去る日、メス猫がお祝いをしてくれた。彼女はもはや新人ではなく、次期「お局」としての第一歩を確実に踏み出していた。お祝いの言葉を述べながら、誰が敵で誰が味方なのか、監視カメラのような視線を油断無く飛ばしていた。ここのボスが誰なのか、見せ付けているかのようのだった。
 彼女を恐れる私の元取り巻きたちは、おざなりの挨拶しかしてくれなかった。これは権力移譲の儀式だった。メス猫は満面の笑みを浮かべていた。悔しかった。けど、どうしようもないのだ。時が過去から未来にしか流れないのと同じように、新人もいつかはお局になり、お局はいつかは追い出される。
 最後に、私のことを見守り続けた上司たちが、職場の門をくぐったときに預けていた私物を返してくれた。綺麗なままだった。全てが懐かしく、また驚くべく生真面目さに感謝の念を捧げるしか無かった。
「もう、戻ってくるなよ」
 上司たちは声を掛けてくれた。もちろん、そのつもりだ。戻ってきても、私の居場所はもうここにはない。歯を食いしばり、新しい世界で生きていくしかない。
 一番仲の良い女性上司が私の手を握る。
「これから貴方は新人に戻るのね」
 彼女の手は暖かかった。私は気がついた。人間はいつでも新人になれる。いつでも古い殻を脱ぎ捨てることができる。だからこそ、人生は素晴らしいのかもしれない。
 今日は快晴だった。太陽はどこまでもまぶしかった。私は世の中に向けて新しい一歩を踏み出した。
 長年住み慣れた刑務所を背にしながら。
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【掌編】齊藤想『不思議なカメラ』 [自作ショートショート]

TO-BE小説工房(第21回)に応募した作品です。
テーマは「カメラ」でした。

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『不思議なカメラ』 齊藤想

 いきつけのファミレスでぼくが古いカメラのフィルムを巻き上げていると、彼女が興味深そうに眺めてきた。彼女はフィルムカメラを知らない。ぼくも二週間前までは同じだった。たまたま祖父が死亡し、形見分けとして貴重そうなカメラをもらってきたのだ。
「何をしているの?」
「フィルムを巻き上げている。じいちゃんの形見だ」
 カメラの右上にある小さなレバーを押し込むたびに、フィルムを巻き取る歯車の音が聞こえてくる。いかにもアナログといった感じだ。全体的にゴツゴツとしており、まるで大砲のようなレンズが付いている。重量感も抜群で、振り回せば大人を殴り殺せそうだ。
 試し撮り、と言ってぼくがシャッターを切ると、彼女は不思議そうな顔をした。カシャカシャとゴキブリが新聞紙の隙間を走り回るような音がする。しばらくしてシャッターから指を離す。
「撮影した写真はどうやって見るの?」
「現像するんだ」ぼくはフィルムカメラの仕組みを説明する。とにかくお金がかかる。
「ずいぶんと無駄なのね」と彼女は笑った。
 けど、この無駄が大事なのだ。
 このカメラが不思議な力を持っていることを知ったのは、単なる偶然だった。
 ぼくは祖父のカメラを手にすると、そのままアンティークショップに持ち込んだ。ところが、中途半端な古さのため市場価値はなく、おまけに巻き取り機構が壊れていると指摘された。普通は一枚撮影したら一コマ分しか巻き取れないが、祖父のカメラは何枚でも巻き取れる。おまけに撮影するたびに歯車が軋む騒がしい音がする。
「修理しますか? 安くしておきますよ」
 そう言われたが、もちろん断った。
 そのまま捨ててしまうのも祖父に悪い気がしたので、数枚だけ風景を撮影してみた。現像した枚数だけお金がかかると知っていたので、三枚だけ撮影して、まだ辛うじて生き残っている駅前の写真屋に出した。
 そうしたら、不思議なことに、なぜか十二枚も現像されてきた。撮影した記憶のない写真が混じっている。よく見ると、それらは撮影の間を埋めるような写真だった。
 ぼくは気が付いた。
 このカメラには不思議な力がある。まるでカメラだけタイムマシンに乗ったように、写真と写真の間を埋めてくれるのだ。この力を使えば、とんでもない写真が撮れる。
 だから思った。彼女を一枚だけ撮影して、数日後にまた撮る。そうすれば彼女の生活をのぞき見できるかもしれない。上手くいけば、ぼくのまだ知らない彼女の柔肌が写るかもしれない。
「そのカメラ見せてよ」
 断るのも変なので、彼女に渡した。
 彼女はカメラを裏返しにして、スマホをいじり始めた。自分も高校生だが、親からスマホを禁止されている。彼女がうらやましい。
「お金が掛かるから撮影したらダメだよ」
 分かっている、といいながら彼女はスマホで調べながら楽しそうに操作している。その無邪気な様子を見ていると、ぼくは自分の行為が恥ずかしくなってきた。いったい自分は何を考えているのか。
「このカメラだけど、実は壊れている」
 フィルムを巻き取ろうとする彼女を見て、ぼくは口にしていた。彼女の瞳を前にすると良心の呵責に耐えられない。心の堤防が決壊すると、あとは秘密の洪水だった。彼女の私生活をのぞき見しようとしたことを除いて全てを語り終えたとき、彼女はカメラをテーブルに戻した。
「別に不思議でもなんでもないよ」
「え?」
 彼女がシャッターの脇にある小さなボタンを指さす。
「だって、これ連写モードになっているじゃない。大輔は一枚だけ撮影したつもりだったけど、実は何枚も撮影していたのよ。本当は自動巻取りで巻き取れないはずだけど、このカメラは壊れているから一枚撮影したのと同じように巻き取れたというわけね」
 彼女が軽くシャッターに触れると、カメラが騒がしく唸り続ける。
「異音がするから分かりにくいけど、これはカシャカシャ何回もシャッター切っている音なのよ。それはそうと、大輔はこのカメラで何を撮影しようしていたわけ?」
 制服姿の彼女が迫ってくる。ぼくの背中に冷や汗が流れる。
「まあ、そこが大輔のいいところなのよね。隠し事ができないところが」
 祖父はカメラが縁で祖母と結ばれたという。
 今回の件はぼくの勘違いだったかもしれないけど、このカメラに不思議な力があることだけは間違いないようだ。

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