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【随筆】齊藤想『聞き語り』 [自作ショートショート]

第3回平和のメッセージコンテストinちくぜんに応募した作品です。
テーマは「誰かに伝えたいこと」「誰かに語り継ぎたいこと」でした。

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齊藤想『聞き語り』  
               

 今年は戦後六十九年(注:応募当時です。以下同じ)になる。
 もう十年近く前になるが、たまたま数人の老人たちから個別に戦争体験を聞いたことがある。元兵士たちも当時で既に八十代半ばだ。
 私は戦争体験を聞きに行ったわけではない。たまたま仕事で老人たちのご自宅に伺うことがあり、そこで雑談をしているうちに、自然と戦時中の話になった。だから、脚色もなく、政治色もなく、お茶を飲みながら素のままの体験談といえる。
 しかし、こうした貴重な体験も、このままでは消えゆくのみ。
 話を聞いたものの努めとして、こうした機会を活かし、戦争体験者の話を残しておきたいと思う。

【A氏の話】
 私がA氏から話を聞いたとき、彼は八十三歳前後だったと記憶している。逆算すると、終戦時は二十二歳前後となる。
「本土決戦が叫ばれるようになったころ、赤紙が来て召集された。行き先は山を何個か越えると着く静岡県の海岸。交通網がズタズタにされていたので、そこまで歩かされて、その場でスコップとつるはしを渡されて崖に穴を掘れと命令された。本土決戦のための塹壕を作るのだと。
 本音は「何を馬鹿なことを」と思ったが、命令だから仕方がない。
 食料もなく、機材もなく、人力だけの作業なので遅々として進まない。そのうち、終戦直前だったと思うが、故郷が空襲を受けたという情報が入った。それでも、国のためだとみんなでスコップを振るい続けた。それなのに、なんと隊長が「心配だから」と故郷に帰ってしまった。戻りたいのはみんな同じだというのに、なんという体たらくだ。隊長がいなくなったので、あとはみんなでダラダラ過ごした。
 ちなみに本当は近所のH氏も召集されるはずだった。しかし、あいつは目が悪いとうそをつき、戦争から逃げた。卑怯なやつだ。いまでも大嫌いだ。あいつはいまでも近所からのけものにされている。
 終戦はその海岸で迎えた。
 解散命令が出て、武装解除の後、歩いて自宅まで戻った。戦争はやるもんじゃない」

※ちなみにHさんのご自宅にも仕事で何(むしろA氏以上に)伺いましたが、一度も戦時中の話は出ませんでした。視力も普通で、A氏と同い年ですがご健康でした。

【B氏の話】
 B氏もA氏と同じ時期にお話を聞きました。A氏より若干年上で、当時八十六歳前後だったと記憶しています。終戦当時は二十五歳前後だったはずです。小柄なかたでした。
「赤紙で召集されて、南洋の島に派遣された。武器も兵も少なかったので、攻められたらひとたまりもなかっただろう。けど、幸運なことに、アメリカ軍は終戦までこの島にやってこなかった。命拾いした、という気持ちだ。
 大変なのは日本が降伏した後だ。
 なにしろ船舶が枯渇していたので、引き上げ船がこない。手持ちの食料も尽きた。あまりにひもじくて、こっそりと村民の食料庫を漁ったことがある。ようやくひとここち付いたと思ったら、翌日には日本兵の仕業だとばれてしまった。
 理由は足跡だ。
 村民は靴をはかないので、靴の跡が残っていれば日本兵の仕業だとバレバレというわけだ。村民には怒られたが、なんだかんだと引き上げ船がくるまで無事に過ごすことができた。暴力的な行為は受けなかった。
 いやもう、戦争はもうこりごりだわ」

【ある村で聞いた話】
 この村はかなりの山奥にあり、鉄道開通も昭和五十年代と、最近までかなり昔の雰囲気を残していました。
 そのような村にまで赤紙が届いていたことに、ある意味、驚きました。
「この村からは四人出征した。
 当時は鉄道もバスもなく、徒歩で山を降りて里に集合した。二晩ほどかかった。ちなみに買出しをするときは大八車を出し、村の若い者を何人かつけて一週間かけて往復した。そんな時代だった。酒は山を越えたところに酒蔵があるので、三人かかりで一晩あれば持ってこれた。
 四人中二人が戦死した。
 もちろん名誉の戦死ということだが、そりゃ人間だもの、みんなで「可哀想だなあ」と言っていたさ」

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